[01]



 池袋某所、夜――
 三月の末とはいっても、日が落ちた時間は肌寒さが際立つ。ネオンで輝く繁華街には、厚手のコートを着こんだ姿が多く見られた。襟を立て、足早に大通りを過ぎていく人々。
 ビル街の上空を、さっと黒い影が横切った。すぐ後に、小さい影が追う。
 音もなく、闇に溶け込むような二つの影を見咎める者はいない。昔に比べればずっと狭くなった夜空を見上げる必要も、余裕もなかった。仮に見上げたとしても、おかしな夢でも見たのだろうと思うに違いない。
 高さの異なるビルの屋上を、まるで飛び石のように越えていく。
「……速いな」
 小さい方の影――カサネが呟いた。
 左手に握った断業剣は細く長い残像を残し、くすんだ緋色のコートはせわしくはためく。
 闇夜にぼうっと浮き上がる白い髪に反し、その顔は若々しい。闇色の瞳を憎悪に歪ませ、前方をゆく影を見据えていた。コートのチャックを上まできっちり閉めているため、体のラインはかえって曖昧だ。中性的な顔立ちのせいで、細身の男にも見えただろう。
 いつまでも追いかけっこを続けるつもりはない。
 ネオンが闇を照らしている間は、人間たちにも本当の眠りはやってこないのだ。いつ、何がきっかけで、誰に見つかるとも分からない。騒がれても困るし、ましてや妖魔が人間を襲うようなことがあってはならない。
 断業剣だんごうけんを前にかざせば、剣の形が黒い霧になった。
 更に数本のナイフへと変化し、カサネは両手で前方へと投擲した。
 狙い通り、妖魔の足に命中する。体勢を崩した妖魔は、そのままビルの屋上へと落下した。無機質なコンクリートに黒い液体が、じわりと広がった。
「グゥゥゥ……」
 妖魔は闇の中でもはっきりと分かるほどに真っ黒で、猫に似ている。といっても、三メートルはあろうかという大きさだ。背を丸め、全身の毛を逆立てて威嚇してくる。
 カサネもビルの屋上に降り立つと、左手をかざした。
 妖魔に刺さっていたナイフが再び霧となり、断業剣本来の姿――赤い刃の長い刀になる。
 手に戻ってきた相棒をしっかりと握り込んで、構えた。
 塞ぐものがなくなった妖魔の傷口からは、黒い液体が噴出している。それは彼らにとって血液のようなものだ。基本的に妖魔は黒い血である。強靭な耐性と再生能力があるため、多少の事では死なない。
 その証拠に、対峙する妖魔にも敵意はありありと見てとれた。
 すぐ襲い掛かってこないのは、カサネが人間の中でも油断ならない存在だと分かっているからだろう。妖魔を追い詰め、ダメージを負わせられる者は限られている。
 じゃり、と爪がコンクリートを引っ掻いた。
 妖魔が生き延びるには、目の前に立ち塞がるカサネを殺さなければならない。足の傷はけっして浅くなく、上空へ飛び去ることは難しい。一時的な逃亡を図っても、たちまち追いつかれるのは目に見えていた。
 膠着状態の睨み合いは、唐突に終わる。
 カサネが視線を鋭くした直後、素早く踏み込んだのだ。
「ギャアアアアァッ」
 一筋の軌跡が妖魔を切り裂き、辺りに黒い液体を飛び散らせた。それもすぐに灰となって、風と共に消えていく。限界を超えるダメージを受けると、妖魔の体は灰燼に帰す。
「ふん、魔め……」
 剣を無造作に一振りし、冷たく吐き捨てる。
 それから、小刀の形に変えた断業剣を鞘に収めた。
 大抵の場合で人ならぬモノとの戦いは、ほとんど形跡を残さない。今回も妖魔が残したひっかき傷はごく小さなもので、後から気付いた誰かが不審に思うことはないだろう。
 カサネが気になったのは、別のことだ。
(最近、妙に多いな。何かが起こる前触れなのか、それとも……)
 ぞわっと悪寒が走り、反射的に身構えた。
 カサネの周囲から音という音が消える。背筋が凍りつくような気配は、先程の妖魔とは比べ物にならない。断業剣に触れた手が震えを隠すように、柄を握りしめた。
 どこからともなく、くすくすと女の声が響く。
 からかうようでいて、無垢な印象を受ける笑い声にカッと血がのぼる。咄嗟に断業剣を引き抜こうとしたカサネの耳元で、小さな囁きが流し込まれた。
「みぃつけ、た」
「!!?」
 振り向いた瞬間、覆いかぶさってきた誰かに押し倒される。
 全身で絡みつくように抱きつかれ、受け身を取ることもできずに後頭部を強かに打つ。ちょっと星が飛んだような気もするが、今はそれどころではない。
「会いたかったわぁ~♪」
「な、なんっ……誰だ、お前は」
 動揺するカサネはごく当然の問いかけをしただけなのに、相手はいたく気を害したらしい。不満げに頬を膨らませ、半身を起こす。
 ちょうど仰向けに転がったカサネには、豊満な胸が白く浮き上がって見えた。
 男なら喜びそうなシチュエーションだが、あいにくと同性相手に何も感じない。ぐんにゃり潰れた膨らみは黒い着物から半分ほど溢れ、むき出しの肩にかろうじて襟が引っかかっている感じだ。
 女は緋色の唇をつんと尖らせ、間近で覗き込んでくる。
「やぁだ、忘れちゃったの?」
 そんなことを言われても、覚えがないものは仕方ない。
 人付き合いは積極的な方ではないし、そもそも急に抱きついてくる知り合いなどいない。そう言ってやるつもりだったカサネは、彼女の浮かべた笑顔に毒気を抜かれる。
 幼子のようにあどけなく、にぱっと笑ったのだ。
「わたしは冥理夜めいりや、約束を果たしてもらいに来たの」
「約束?」
「うん」
 名前を聞いても、約束のことも思い当たらない。
 忘れてしまったのだろうか。
 至近距離に、薄い水色の瞳がある。言葉は通じているようだが、この国に住む人間ではなさそうだ。日本以外にも、黒髪の女はいる。目の前の存在が「人間」であれば、だが。
 戸惑うばかりのカサネに何を感じたか、冥理夜がまた抱きついてきた。
「えへへ」
「とりあえず、どいてくれないか」
「い~やっ」
「私には何のことか、わからないんだが……」
「えぇ~? もぉー、ちゃんと思い出してよぉ」
 再びむくれる。
 なんとも恨めしそうに言われては、さすがのカサネも罪悪感が募った。冥理夜と名乗った女が何者かはともかくとして、誠意のない人間だと思われたくない。
 約束とは、守るためにあるものだ。
 一方的に期待させ、踏みにじるものではない。
「……すまない」
 冥理夜は目を丸くしてから、ことんと首を傾げた。
 外見は妖艶な美女そのものだというのに、いちいち仕草が子供っぽい。そのせいで突然現れた彼女に対する警戒心もほとんど残っていなかった。
 よっこいしょ、と冥理夜が起き上がる。
 やっとどいてくれたかと安堵するよりも、その色々見えすぎる服装はどうなのだろうとカサネは軽い眩暈を覚えた。
「まあ……、あの時はフラフラだったし? 仕方ないかしら」
 立ち上がった冥理夜は腕を組み、ぶつぶつと独り言を呟く。
「あの時?」
「うん、いいわ。それならしょうがないし。これからずっと一緒にいてあげるから、そのうち思い出してね」
 一人納得した様子の冥理夜が、無邪気な笑顔を咲かせる。
「ちょ、ちょっと待て。どういうことだ!? 勝手に……うわっ」
「これからよろしくね、カサネちゃん♪」
「こ、こらっ、抱きつくな!」
 するりと巻き付いてきた腕は細いのに、なかなか振りほどけない。状況も全く飲み込めずに動揺するカサネをよそに、冥理夜はかなりのご満悦だ。
「うふふ、照れちゃってかーわいい」
「照れてなどいない!!」
 くすくすと笑い声が耳をくすぐる。
 だが、最初に聞いた時ほどに恐ろしいものではないと感じてしまっていた。








[02]



 カサネと冥理夜が『再会』したあの晩から、数日が経った。
 池袋の一角にカサネの事務所『デス・ドライブ』がある。さも当たり前のように、冥理夜は事務所内をてくてく歩いていた。ひょいと見上げれば、ドア上部に『書庫』と書かれた白いプレートがかけられている。
 妙に動きが鈍いドアを開け、真ん丸になった目で瞬きをした。
「わあ、ドロボーさんが来た後みたい」
 壁一面がほぼ本棚で、一つきりの事務用デスクはノートパソコン以外にも文献やら何かのファイルやらでごちゃごちゃと散らかっている。本棚もきっちり整頓されているわけではなく、溢れたのか抜き取られたのか分からない物が、いくつかの山となって床に点在している。しかも、そのほとんどが崩れかけていた。
 要するに、足の踏み場がない。
 冥理夜は人間ではないので、ふわふわと宙に浮いている。というよりも、大地に足を付けていることの方が少ない。山をもっと崩さないように気を付けながら、中へ入った。
 目についた手頃なファイルを拾い、ぱらっとめくってみた。
 カサネが今まで撃破してきたであろう妖魔の詳細なデータが、きちんとファイリングされている。また別のファイルを開けば、断業剣だんごうけんについての細部にわたるデータがまとめられていた。
 水色の瞳がざっと活字をなぞり、眉間にシワを寄せた。
「この本、面白くない」
 ファイルを閉じ、元々あった床にそっと置く。今度は本棚の前へ飛んでいき、興味を引きそうな本を探してみた。
 その時、ガチャリとドアの開く音が聞こえる。
「あ、帰ってきた!」
 ぱあっと顔を輝かせた冥理夜はまるで、迎えにきた親を見る子供のごとくだ。
 跳ねるように本やファイルの群れを飛び越えて書庫を出ると、まっすぐ廊下を突っ切った。
「おかえりなさいっ」
「あ、あぁ……」
 カサネはその勢いにたじろぎつつ、玄関を施錠する。
 わずかに上半身を反らしてしまったのは、もう条件反射のようなものだ。冥理夜はそれに気付くことなく、嬉しそうに微笑んでいる。コートを脱ぎながら書庫へ向かうカサネをひとまず見送り、ふわふわと後をついていった。
 脱いだコートを冥理夜が半ば奪い取るように預かり、カサネは小刀形態の断業剣をデスクに置く。大きくため息を吐きながら、椅子に深く体を沈めた。
 いつになく疲れているようだ。
 この界隈に潜む妖魔ごとき、カサネの相手にもならない。多少のことでは疲れた様子など見せないのに。何かあったのだろうかと、冥理夜は首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いや、何も」
「そっか。またハズレだったのね」
「………」
 カサネは何も言わなかったが、それは肯定と同じだ。
 しばしの沈黙が、書庫の空気を重くする。眉間にくっきりと刻まれたシワが、カサネの苦悩を如実に物語っていた。苛立ちと焦燥の二つが、彼女を追い詰めているのは確かだ。
 冥理夜がふわり、とカサネの背後に舞い降りる。
 薄着になった肩へ手をかけると、そのまま後ろから抱きついた。これが冥理夜のクセだと分かっているから、もうカサネも反応しない。
「ねえ、カサネちゃん」
 至近距離で見つめると、黒い瞳に冥理夜が映り込んだ。
 冥理夜にとっては、それだけで幸せになれる。言葉にできない高揚感に包まれる。今のカサネには、とうてい理解できないことかもしれないけれど。
「手当たり次第にやっつけまくっても、疲れるだけじゃない?」
「……っ」
 図星を突かれ、冥理夜を強く睨んでくる。だが冥理夜は怯まず、続けた。
「カサネちゃんが探してる子は、近くにはもういないわ。それにね。わたし、とっても物知りな友達がいるの」
「友達……だと?」
「そうよ」
 くすくす笑う。
 カサネが体を浮かせかけたことで、二人の顔はほとんどくっつきそうだ。おそらく彼女は、そのことにちっとも気付いていないだろう。頭の中は憎い仇のことでいっぱいなのだ。
 わずかばかりの寂しさを感じたものの、言うべきことはそれではない。
燈明堂とうめいどう、っていう本屋さんなの。なぁんでも知ってるから、きっとカサネちゃんの知りたいことも分かると思うわ」
 とうめいどう、とカサネの唇が動いた。
 名前くらいなら知っている。表向きは古本屋を営んでいる普通の店だが、その裏ではとんでもない機密情報も取り扱う情報屋らしいと、その道の人間にはとても有名だ。しかし、その詳細を知る者はごく少数に限られ、店の所在地もはっきりとしない。そのために噂ばかりが飛び交い、都市伝説のように扱われている。つまり、本当に実在しているかどうかもわからない。
 部屋中に散乱する書類の山を見やり、肩をすくめる。
「……そうだな」
 魔のことは魔に聞いた方が確かかもしれない。それに、この冥理夜についても情報はほとんどないに等しい。
 いい加減、一人で調べることにも限界を感じつつあった。
「奴に関するデータは少ない。目には目を、か」
 所詮は、この程度。
 自虐的な思考が脳裏を占め、昏い笑みを浮かべる。以前のカサネなら、魔に力を借りるなど考えもしなかっただろう。冥理夜の存在は思ったよりも、心に影響を及ぼしているらしい。
 複雑な思いを胸のうちに押し込め、カサネは頷いた。
 冥理夜は嬉しくてたまらないといった風に笑み崩れ、ふわっと舞い上がる。もともと床に触れていなかった彼女の足が更に距離を空けて、本棚に手を滑らせ始めた。
「ん、これがいいかな」
 おもむろに一冊の分厚い辞書を抜き、真ん中あたりを開く。
「はじまり、はじまり。めでたし、めでたし」
 開いた時と同じように、ぱたんと辞書を閉じる。
 そうして無造作に振れば、銀色の鍵が落下した。一見して変哲のない、どこにでもありそうな辞書から見覚えのない小さな鍵が出てきたのだ。冥理夜はそれを拾い上げ、書庫のドアノブに挿そうとする。
「おい、そのドアに鍵は付いていないぞ」
「うふふ、そんなことないわ。ほら」
 ほっそりとした指が示す先に、鍵穴を見つけて驚く。
 妖魔との戦いに明け暮れる日々で、超常現象には慣れている。ちゃんと理解できているかといえば、そうではないが。
 冥理夜が鼻歌でも歌いそうな雰囲気で鍵を使い、ドアの向こうから眩い光が溢れだした。真っ白に染まる視界の中、冥理夜の手がカサネを誘う。

 踏み出した足の下で、グシャと何かが潰れた。明らかに、事務所の廊下ではない。
「こ、ここは…?」
 カサネの問いに答えるのは、古めかしい日本民家に掛けられた『燈明堂』の文字だ。
 手書きと思われる堂々とした書体が、木製の看板に刻まれている。奥の方が居住区なのだろうか。二階建ての家屋が繋がっていて、年代物っぽい蔵まで見える。
 竹で作られた垣根に囲まれた店は、想像以上に異質だった。








[03]



 カア、とカラスの鳴き声が聞こえた。
 ここは住宅街というのもあって、カラスの姿は珍しくない。よく肥えているらしく、やや大きな体を細い電線の上に留めている。いや待て、こんな夜更けにカラスがいるはずはない。
「…?」
 金の目に見えた、というのは錯覚だろう。
 冥理夜が見せた不可思議な現象のおかげで、頭が上手く働いていないに違いない。柔らかな手に引かれ、燈明堂とうめいどうの入り口までやってくる。
 今時珍しい木製の引き戸に手をかけた。
「こんにちわぁ~」
 カラカラという音と共に、内装が明らかになる。
 一言で表すなら、見渡す限りの本棚だ。本と棚しかない。天井に届きそうどころか、柱代わりに並ぶ棚は上までぎっちりと本が詰まっている。そんな高さにまで手が伸ばせるのは、冥理夜くらいなものだ。
「こんばんは、お待ちしていましたよ」
 無数の背表紙に目を奪われていたカサネは、びくりと肩を震わせた。
「待っていただと…?」
「ええ、そろそろだと思いましてね。さ、奥へどうぞ」
 着流しの袖をたすき掛けにして、糸目の男が本棚の通路に立っている。
 まるで狐だ。
 古来より人間を化かし、惑わせるという妖。狸と同じく、人の姿を真似るのも得意だそうだ。男の正体が狐かどうかはさておき、カサネの嗅覚が『人間ではない』と囁いている。冥理夜の知り合いなのだから、それもそうかと思い直した。
「カサネちゃん?」
 名を呼んだわけでもないのに冥理夜の顔が正面に来て、苦く笑う。
 彼女はおそらく、カサネが妖魔退治を続ける理由も知っている。子供と大人を行き来する言動の差に戸惑うことは多い。それでも追い出す気になれない自分に、カサネ本人こそが驚いていた。
 いくらか毒気を抜かれ、店主らしき男が待つ奥へと歩みを進める。
「少々こちらでお待ちください」
 古本屋らしくカウンターがあるのかと思いきや、こぢんまりとした一畳半のスペースがあるだけだった。本棚の途切れた壁にはカーテンが掛けられ、その向こうは窓があるのだと分かる。椅子はないのかと問いかける前に、冥理夜がぺたんと腰を下ろした。
 無防備すぎる態度に、思わずため息を吐く。
「おい、冥理夜」
 その続きを言う前に、ぎょっとする。
 冥理夜が感激のあまりに目を潤ませていたのだ。
「やっと…! やっと、わたしの名前を呼んでくれたぁ~」
「やめろ。いちいち抱きつくな!」
「いやん。カサネちゃんったら、照れなくてもいいのよぉ」
「照れているわけではないっ! と、とにかく離れろ…!」
 いつもは浮いている冥理夜だったが、今は畳の上から抱きついてきたのでカサネが逆に倒れ込みそうになる。絡みついた腕は離れそうもないし、ぐいぐいと引っ張られて体が傾く。慌てて店の奥に続いていそうな戸口を見たが、暖簾のれんはゆらりともしない。
 誰か助けてくれ。
 そんな切なる願いが届いたのか、奥の方からパタパタと軽快な足音が近づいてきた。暖簾を勢いよく跳ね上げたのは、丸い盆を持った少女だ。
「はあーい、お待たせしましたぁ! ソ茶でございま――あっ」
 愛くるしい笑顔の台詞が尻切れトンボになる。
 少女は敷居で躓き、盆に乗っていた湯飲みごと熱い茶が宙に舞った。そこからはスローモーションのようだった。反射的に断業剣だんごうけんを構えようとして、事務所に置いてきたと気付く。もろに顔面から被るよりはと、両腕で防御の体勢を取った。
 しかし、いつまで待っても茶は降ってこない。
 隣の冥理夜を見れば、無邪気な笑顔が返ってきた。
 一方、少女はベチーンと顔面着地する。その頭上には盆も、湯飲みも消え失せていた。派手に転んだせいか、べそをかきながら起き上がる。
「ふぇぇ……、ごめんなさぁい……」
「いいのよ。それよりかなめちゃん、お顔だいじょーぶ?」
「う、うん。へーきだよぉ」
 鼻の頭とオデコを赤く腫らしながら、少女がちょこんと畳に正座する。
「いやはや、すみませんねぇ」
 つい呆けていたカサネは、のんびりとした声にハッとした。
 店主が既に新しい茶を用意して、こちらへやってくる。流れるような動きで膝をつくと、豊かな芳香を立てる湯飲みを差し出してくれた。
「お客様をお迎えするのが久方振りなもので、不慣れなんですよ」
「ぜんぜん気にしないで。ねぇ、カサネちゃん?」
「あ? あぁ……」
「よかったぁ! ありがとう、お兄ちゃん」
 子供らしい無邪気な発言に、カサネは微苦笑する。粗相をしたのにあっさり許されて、ホッとしているのがよく分かる。十を越えた年頃だろうか。金の髪に縁どられた顔は、まだまだ幼さが色濃く残る。
 冥理夜がピンと指を立て、
「要ちゃん、カサネちゃんは『お姉ちゃん』なの。お兄ちゃんじゃないわ」
「えっえっ!? そうなの!? あわわっ。た、たびたび、すみません!」
 髪の色と同じ金の瞳をくりくり動かして、少女はぴょこんと頭を下げた。小さな体を大きく動かすので、なんとも微笑ましい。
 それで場が和み、店主はゆったりと微笑んだ。
「ようこそ、燈明堂へ」
 申し訳ありませんと前置いてから、居住まいを正す。
「自己紹介が遅れてしまいましたね。僕は、この燈明堂の店長を担っております、ボ・ウォルヤンと申します。どうぞ、ヴォルとお呼びください。それから……」
 隣に座る金髪の少女に目をやり、頭を撫でる。
「こちらは看板娘の桐津 要きりつ かなめ。見ての通り、まだ幼いゆえに先ほどのような粗相もありますが、大目にみていただけると助かります」
 撫でられて気持ちよさそうな要に、カサネは亡き妹の面影を重ねてしまい、どうしようもなく切なくなる。過去の記憶はふとした拍子に、こうやって心を苛む。
「さて、藤沢カサネさん。今日は、どういったご用件でしょうか」
「用件…?」
「燈明堂には、あらゆる記憶、記録、情報が書物となって保管されています。何かについてお調べになりたいと願い、ここへ来られたのでしょう?」
 全て把握しているということか。
 ならば話すべきことは決まっている。カサネは表情を引き締め、
「あぁ、そうだ。ここ数ヶ月間、異様なほど妖魔が出現している。その原因と――
 ぐっと唇を噛む。ほとんど無意識に、右手で左肩を強く握りしめた。
「私の大事なものを奪った……憎い、仇を捜している。それについて何か、……どんなことでもいい。何か情報は無いだろうか……?」
 しばしの沈黙。
 店主は顔色一つ変えない。開いているのか閉じているのかも分からない糸目の向こうで、何を考えているのか。カサネにはこの沈黙が、実際よりも長く感じられた。
「アナテマ」
 ややあって、ヴォルが呟く。
「何…?」
「十年ほど前、人間が作り上げた組織です。常に黒い噂が絶えず、悪しき人体実験を行っているとか。我々ですら詳細を明かしきれていませんが、昨今の妖魔異常発生に彼らが関わっているのは確かです」
「待て。ここは、あらゆる情報が集まる場所だと言わなかったか?」
「ええ、本来ならば。しかしアナテマに関する情報だけは、流れてきません。何者かが、我々が把握できないように細工を施しているのです」
「そんなこと、できるの?」
 冥理夜がことんと首を傾げるので、ヴォルは苦笑して「できるみたいですね」と言った。
 曖昧な回答だが、それだけ彼らにも意外性の高いことだと分かる。人間の技術力が妖魔の能力を凌いだともいえるが、燈明堂の詳細をカサネは知らない。アナテマ、という組織についても初耳だった。
 糸目を少し開き、カサネを見つめる。
「ただ、これだけは断言できます。妖魔異常発生は奴らの仕業、……そして。藤沢カサネさん、貴方が捜す相手はアナテマにいます」
「っ!!」
 どくんっ、と何かが脈打つ。
 目指すべき先が明確になったことで、胸の奥でくすぶっていた復讐の炎が大きく膨らんだ。絶望が希望にすり替わる。カサネ以外の人間からすれば、そんなものは希望なんて呼ばないと言うかもしれないが。
「アナテマ、か……」
「藤沢カサネさん、我々の目的は同じようです。協力してくださいませんか?」
「……いいだろう。妖魔の独自調査にも限界を感じていたところだ。こちらとしても有り難い」
「感謝します」
 ヴォルが軽く頷き、安堵に顔を綻ばせる。カサネの澱んだ感情にあてられ、怯えていた要もぱちくりと目を瞬かせる。
 初めて彼の、本物の笑顔を見た気がした。
「それと」
「はい」
「フルネームで呼ぶな。カサネ、でいい」
「はい、カサネさん」
 こうして妖魔ハンター、デス・ドライブは燈明堂と契約したのだった。

 冥理夜が開けたドアを通って、二人は事務所《デス・ドライブ》の書庫へ戻ってきた。
 カサネは携帯端末(旧式のケータイ)を開き、登録したばかりの電話番号を確認する。燈明堂と連絡を取り合うために必要だからと、ヴォルに教えてもらったのだ。
『残念ながら、アナテマの所在地はいまだ掴めていません。新たな情報が入り次第、連絡いたします』
 ふつふつと湧き上がる復讐心に、カサネは歪んだ笑みを浮かべる。そんな様子を見やり、少し心配そうに冥理夜は愁眉を下げた。
 そして事務所の屋根に、黒い影が差す。
 カラスが金目を光らせた。ギャアギャアとけたたましく鳴き、翼を広げて飛び立っていく。黒い羽根が一つ、黎明の空に溶けて消えた。





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