――いつからそうしているのか
 ――いつまでこうしているのか……

 その少女は、ぼんやりと外を眺めていた。
 太陽が昇り、中天に輝き、徐々に沈みゆく。星がまたたき、月の光が外を照らす。何度も繰り返される昼と夜のサイクルは、決して止まることなく続いている。
藤沢ふじさわさん。検温ですよ」
 話しかけるのは、担当の看護士だけだ。
 貼りつけた笑顔は能面のように白く、赤い唇が半月の形を作っていた。
 起きる度、寝かされる度、欠けた肉体がきしみを上げる。


 悲鳴が響く夏の夜――、黒い爪がカサネの左腕を吹き飛ばした。
 反射的に立ち向かおうと立つ父親の背中、妹を庇わんとする母親の叫び声。


「包帯、交換するわね」
 冷たくて、誰かの知らない手が体を這う。
 あの日の傷痕は未だ癒えることなく、失われた一部は永遠に戻らない。繰り返す記憶の中で、何度もカサネは家族と身体を失う。


 逃げようとした。
 走ろうとした。
 どこに消えてしまったのか、父がいない。母もいない。それでも無我夢中で、愛する妹の名を叫んだ。この子だけは守らなければ。声に反応して、震える妹が顔を上げる。
『おねえ、ちゃ……』
 突然、もんどりうって倒れた。
 起き上がろうとしても動けなくて、己の身体に愕然とした。
 少し離れた場所で、左足が取り残されていた。ごろりと転がった何かはお気に入りのジーンズをはいたまま、奇妙に折れ曲がっている。


 看護士が、何事か言って出ていった。
 カーテンが揺れる。
 白い布と白いシーツ、白い天井にはシミ一つない。
 ベッドと椅子以外は本当に、何もない部屋だ。彼女以外に誰もいない病室で、カサネは暮れゆく外の風景を眺めている。
 しかしその目に映るのは、あの日の惨劇でしかなく――


 悲鳴。
 絹を裂く、悲痛な叫びは細く長く。
 何度も呼ぶ妹の声に、カサネは答えることすら出来ない。意思に反して朦朧とし始める意識の中で、何とか手足を動かそうとあがく。
 伸ばした手に、何かが触れた。
 夢中でたぐり寄せれば、つかんだ手に髪が残る。見開いた目は悲しみに満ちて、変わり果てた母の面影は血にまみれた横顔だけだった。
 肉の裂ける音。
 止まる時。
 糸を引きながら、どろりとした塊が床に落ちる。
 声の消えた唇から、鮮やかな色彩がゆっくりと伸びていく。黒い影に吊り上げられ、愛らしい服が無残に引き裂かれる。
 ちぎられる体。白い手が放り投げられた。


「あ、ああぁ……っ」

 どくん。

 過去の映像は掻き消えて、暗闇の中で何かが大きく脈打つ。
 ガクガクと体が震えた。何もしていないのに、激しい痙攣で歯もうまくかみ合わない。何とか頭をつかみ、痙攣を止めようとする。

 どくん。どくん。どくん。

 痛みでも、苦痛でもない。奥深いところで熱く脈打っている。
 全身が心臓になってしまったかのように、脈動は次第に大きくなる。呼吸が乱れ、弾む身体にベッドが軋んだ。
「あっあう、ぁ、ああああぁぁっ」
「藤沢さん!?」
 悲鳴を聞きつけて、看護士が病室に駆け込んできた。
 激しく痙攣するカサネに駆け寄り、頭を掻きむしろうとする手を掴む。
「いけない、先生を呼んで! 早くっ」
「は、はいっ」
 もう一人の看護士が、慌ててどこかへ走り去る。
 静かな病院が一変して、にわかに騒がしくなった。カサネの手を掴んでいた看護士も、廊下を振り返って部屋を飛び出す。ナースセンターのコールが鳴っていたのだ。
 そして一人、少女は病室に残される。
 噴出した脂汗がしたたり、シーツにいくつものシミを広げた。肩が大きく上下しながら、苦しげな呼吸をゆっくりと繰り返す。
 その時。
 カーテンがひるがえり、黒い衣装がふわりと降り立った。
 長い髪と大きく広がった着物が、闇から溶け出したかのように黒い。帯一本で締める着物がまるで、フレアスカートのように豊かに波打つ。幼さが残る顔立ちの割に、まとう雰囲気は甘い香りただよう大人の女だ。清楚に妖しく、美しくも禍々しい。
 ふっと目が合う。
 月を映し込んだような瞳が、まんまるに広がった。
「こんばんわ」
 大きくはだけた胸元は白くて、淡く咲いた花びらがカサネを呼ぶ。
「し、にがみ…?」
 闇色の衣装に、思うままを告げてみる。
 こんないきものが、この世のものであるはずがない。
「迎えに、来てくれたの?」
「ううん。わたし、貴女を見にきたの」
「え?」
 にっこりと彼女は微笑む。
 呼吸も発作も忘れ、その無邪気で美しい笑顔に魅入られる。
「わたしは冥理夜めいりや
 冷たい手が、頬を撫でた。
 吐息すら感じられそうなほど近くで、彼女の目がカサネの意識の全てを絡めとる。
「また逢いましょう、カサネ……」
「あなたは、誰?」
 彼女は答えなかった。
 笑顔のまま背中を向け、後姿は闇に溶け込む。窓へ向かったように見えたが、揺れるカーテンに黒衣の姿は見当たらない。
 魔法でもかけられたような気分だった。
 ここは地上五階の病室。窓からの出入りなど、只の人間には到底不可能だ。
 呆然としているうちに、医師と看護士が駆け込んできた。さらに遅れて、器具を持った若い看護士もやってくる。
「大丈夫ですか、藤沢さん!」
「汗をかいているな。今は治まっているようだが、様子をみよう。タオルを持ってきて、検温を。それから血圧に……」
 体中をあちこち触られて、包帯と点滴が交換される。
 濡れた頬を拭う看護士はどこか痛々しそうな目で、こちらをじいっと見ていた。痛いのは彼女ではないのに……。
 医師が次々と作業を進めていく。
 切羽詰った表情に、どうして彼らはそんな顔をしているのかと疑問に思う。大きな機械が持ち込まれ、身体は丁寧に寝かされて、口には卵形のフタをされた。吹き込まれる空気を吸い、生温い吐息を吐き出す。何もない病室は一変した。

 ピッ、ピッ、ピッ……

 律儀な機械が規則正しい音を鳴らす。
 呼吸とズレたり、また足並み揃ったり、慣れない音に気持ちがざわつく。
 いや、落ち着かないのは彼女のせいだ。
『あなたを見にきたの』
 黒い服の女はそう言った。とてもきれいな死神だった。
 まだ迎えには来てくれないのだろうか。早く皆の所へ行きたいのに。
 もしも、あれが悪魔ならば。
(この手に力を……)
 愛しい妹と両親を奪った、あの黒い魔物をズタズタに切り裂いてやる力が欲しい。
 残った右手は、やや汗ばんでいた。
 やせ細り、枯れ木のような腕に透明な管が繋がっている。ぐっと握り締めても、ほんのわずかの力すら出ない。震えながら、指と指が触れて、そこで力尽きた。
(はやく……)
 目を閉じれば、またあの悪夢がよみがえる。朝も昼も夜も、黒い影が家族を切り裂く。
 眠りたくない。
 抵抗しようとする意思もむなしく、傷だらけの少女はゆっくりと目蓋を閉じた。





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