[ 1 ]

「なんでお前、猫じゃねぇの?」狩矢
「うるせぇ!!」登夢

■災難其ノ壱

 猫は夜型、とはよく言ったもので、ワーキャットの登夢は昼の間じゅう寝ていることが多い。月の満ち欠けに魔力や姿が制御されるものの、己の好む姿のままに生きていけるのは幸せというものだ。むしろ、番人としての仕事がある夜間より、ずっと充実した時間帯だと本人は思っていた。
「ふがぁ~っ」
 大あくびをして、縁側に丸くなる。寒さの合間に来る暖かな日々は、かの存在にとって非常にありがたいものだった。化け猫と混同される事を嫌う登夢、彼が最も好む姿は猫だった。寝たい時にただ惰眠を貪る。彼らが居るのは、もとより人が寄りつかない山奥の館だ。
(極楽極楽・・)
 一般的意味と著しくかけ離れた感想を抱き、虎毛模様の猫は心地よいまどろみに己を漂わせていた。
 しかし平穏は突如、破られる。
「待ちなさい、レン」
「誰が待つものですか。あなたの言葉など、聞く価値もありませんわ」
 またか、と登夢は寝返りを打つ。遠野山の住人達に昼も夜もない。まして現と幻、人とそうでないモノの境すら関係ないのだ。
 薄目を開けば、二組の足が近づいてくるのが見える。
「これは紅様のご命令だぞ」
「それがどうしたっていうの? わたくしは好きにさせていただくわ」
 追う想霧を鬱陶しそうに見やり、レンが苛立ちも露わに宣言する。傍目から見ても仲が良いと言えない二人だ。このように言い争う様子など珍しくもない。
(といっても、ぎゃあぎゃあと叫ばないだけ、まだマシか)
 どこぞの毛玉を思い出し、登夢は自慢の尻尾で床を叩く。猫は不快なことがあると尻尾を上下させるクセがあるが、彼も例外ではなかった。
 なぜなら、彼は人である前に猫だからだ。
「レン!」
「メイドのくせに付きまとわないでくれるかしら」
「・・もしかして同じ分身の存在で、紅様から直接お言葉がいただけないのを不満に思っているのか?」
「・・・・好きに解釈したらいかが」
(図星か)
 登夢はこっそりと息を吐いた。何度もこうしたやりとりを聞いていれば、個々の特徴も把握できるというものだ。鈍いようでいて鋭い所を突く想霧も、意外に繊細で過敏なレンの神経を逆撫でしない方法をいい加減に覚えて欲しい。
(里でやれ、里で)
 これでは安眠も程遠い。登夢は内心ごちて、また床を叩いた。
 尻尾に潰され、小さな断末魔と共に魍魎が消滅する。レン達ほどの幻魔になると、彼女達が開けた穴の隙間から細かい魔物が漏れ出るのだ。いくら結界があっても、これは仕方のない。そしてそれらの退治・送還が登夢たち、幻夢館の住人達の主な仕事である。
 あちらの世界とこちらの世界の均衡を保つ。難しいようで、ひどくあっさりと世界の調和は守られていた――はずだった。
「ふぎゃあああぁっ?!!」
 幻夢館に猫の悲鳴が響き渡った。ついでにどこかのガラスも割れた。


つづく!?





[ 2 ]

「人間用の媚薬って、効果あるのかなぁ」
「・・試してみる?」(ニヤリ)

■災難其ノ弐

 境界の番人といえども、昼間くらいは休みたい。紅の掟が効いてるのか、ここ最近は目立った事件も起きていない。だから、番人たちはのんびりと日々を過ごしていた。クセモノ揃いの番人は紅の分身たちとも相性が良いらしい。
 先程から、やなぎと由良が楽しそうに何かを作っている。傍観する予定の由那も加わり、そろそろ良い匂いも漂い始めていた。
(おかしい・・)
 槐は眉を寄せた。
 燈明堂に苦情や事件が舞い込んできても、番人達の住む幻夢館には大した仕事はあるはずもない。結界はちゃんと機能しているので、たまにもれ出る魍魎達は日常生活の中で簡単に退治できた。
(何事もなさすぎる)
 彼女の懸念はそこにあった。何もない。それは一見して平和のようでも、遠野山にとって大変な異常事態なのだ。あれほど燈明堂が騒いでいても、境界ではそよ風も吹いていない。
 静か過ぎる。まるで、何かの前触れのような―――。
「一旦、屋敷へ戻るしかないわね」
 分身とはいえ、紅の考える事が全て槐達に伝わる訳ではない。分身たちの情報が紅に伝わっても、その逆はないということだ。指示を仰ぐなら、彼女自身のいる屋敷まで戻る必要があった。
 尤も、こうして槐が思い悩んでいる事は紅も気付いているかもしれない。だが、ものぐさな彼女がわざわざ念波などを使ってくるはずもなく、まして実際に境界までやってくることなど万が一にもありえなかった。
「やなぎ、そろそろ・・」
 その時だった。幻夢館を震撼させる悲鳴が響き渡ったのは。
「何事ッ?!」
 割れたガラスが霧雨のように降ってくる。簡易結界でそれを防ぎながら、槐は声がしたと思われる場所へ急行した。
「げ」
「あ」
 途中、慌てた様子のレン・想霧と会った。
「『げ』?」
「あら、なんの事かしら」
 槐が聞きとがめても、レンは知らぬフリを通すつもりだ。想霧を振り返っても、苦い表情で肩をすくめるだけ。
「そうそう、貴方に紅様から伝言があるようですわ」
「伝言?」
「ええ。わたくしは直接聞いておりませんので、内容は知りませんけど」
 直接、という部分を強調してレンは想霧を見た。さあ、話せとばかりにふんぞり返る。とりあえずは慌てて走ってきた事に対する言及がないので安心したらしい。
「レン・・、あのねぇ」
「想霧。紅様から伝言って?」
 ため息を吐いて、想霧は言った。
「大したことじゃない。感縫とやなぎから目を離さぬように、と・・」
「きゃああああっ?!」
 今度はやなぎの悲鳴が響き渡った。


 時間は少しばかり遡る。
 台所では三人娘が、楽しそうに談笑していた。由良は時々、見当違いのボケをかましてはボウルの中身をこねくり回していた。他の二人は彼女と背中合わせに細かい作業をしている。
「スパイス入りも作った方が面白いわね」
「・・んと、甘いのと甘くないのを作ります」
「由良ちゃんはね~、甘いのがいいなぁ」
「あんたの意見は聞いてないの」
「ぶーぶー」
 女の子は甘い物が好きという点では、由那とやなぎは普通の女の子だった。ただ、由良は相当の悪食なのである。甘いものを辛いと評し、苦いものはまろやかなコクがあると悦に入る。そんな彼女が「甘いの」と言った所で、やなぎ達がまともに作った味に相当するはずもなかった。
「くっきー、作るのなんて久しぶりです・・」
「ああ、そうね。あなた達はこういった物が必要ないんだっけ」
 やなぎがこくん、と頷く。
 人間からすれば、妖怪も幻魔も同様に扱われる事が多い。だが、幻魔は主に人間の感情を食料とするのだ。これに対し、妖怪は多種多様である。人肉や人間と同じような食べ物を餌とするモノもいれば、幻魔と同じく人間の感情を糧とするモノもいる。要はエネルギーの変換方法が違うだけなのだが、人間と同じように生活する妖怪は人間と同じように老いて生を終える。
 由良がボウルのクッキー生地に白い粉をかけながら、
「せんべいなんか、甘くておいしーのに」
「あんただけよ、激辛煎餅を『甘い』と言う変態は」
「あうぅ、ひっどぉ~い」
「あ・・、由良ちゃん」
 いきなり泣きべそになる由良に、やなぎが行動に困っておろおろする。だが、付き合いの長い由那は平然としたものだ。
「どうせ嘘泣きよ。ほうっておけばいいの」
「・・う、うん」
「由那ちゃんの鬼ババ~」
 聞こえるか否かの小声で由良がこっそり反撃する。が、
「何か言った?」
 にっこりと微笑んで由那が振り返った。表情こそ穏やかなものの、手には真っ赤に焼けた天板が握られている。
「あ、熱くないの・・?」
「心頭滅却すれば、火もまた涼しよ」
 なんて言いながら、触れる部分だけ冷却の呪をかけているのだ。同じ月の兎である由良はすぐに気付いたが、指摘できるような状況ではなかった。
 その時である。あの壮絶な悲鳴が響き渡ったのは。
「え、えっ?! 何が起きたのッ?」
 由良がびっくりしてウサ耳を出す。本来はしまわれている耳だが、こうして驚いたりすると出てくるのだ。が、
 じゅうぅぅ
「~~~~~~ッ!!」
 悲しきかな。ぴん、と立った耳は頭上の天板と接触してしまった。もちろん、冷却の呪などかけていないから、もろに熱さが伝わる。
「うっきゃーっ!」
 白い毛がたちまち焦げ、地肌が真っ赤に腫れ上がる。痛みと熱さに台所を走り回る由良。
 そこへ、新たな犠牲者が現れた。
「おぅ、なんか良い匂いする・・・・って、何をやっているんだ?」
「あ・・っ、感縫」
「みぎゃあああぁんっ」
「ちょ、由良! 落ち着きなさいっ」
 由那はさすがに天板を下ろしていたが、パニック状態の由良にはどんな声も届いていない。半分くらいウサギの姿になりながら、そんなに広くない台所を滅茶苦茶に駆け回る。
「おいおい、何があったんだ。これは」
「・・う、うん。えと、それがね・・」
「あちいあちいあちいよおぅぉぅぉ~っ」
 やなぎが一生懸命に説明しようとするが、騒ぎまくる由良が声をかき消してしまう。おまけに上やら下やらおかまいなしに駆けずり回るものだから、一同は声もない。
「ウサギって、天井も走れたんだな・・」
 感縫がぼそりと呟いたとき、由那がおもむろにハリセンをかまえた。
 ・・・後になって思えば、もっと別のやり方もあったのだろう。ひょっとしたら、彼女も予想しない出来事で冷静さを失っていたのかもしれない。
 後頭部の小気味良い音に、調理台の上にいた由良がよろめいた。そのまま倒れていくので、慌てて感縫が手を伸ばす。
 ・・・後になって思えば、それもいけなかった。しかし転落して床に頭でもぶつけたら、とても面倒なことになる。感縫がした事はあんまり間違っていないはずだった。
 気絶した由良の体が傾く。その下にはなんと、彼女がこねくり回していたクッキー生地が入ったボウルがあったのだ。落下地点から避難させる余裕もなかった。由良の体はボウルに乗って半回転し、中身は受け止め体勢の感縫もろともに床へとぶちまけられた。
「きゃああああっ?!」
 絹を裂く悲鳴が上がる。そこにちょっと疑問形が入っていても、倒れた感縫がお笑い芸人よろしく間抜けな格好だとしても、その上に馬乗りで落下した由良を責められる者はいないだろう。
「・・何なの、一体・・・・」
 由良は災厄を呼ぶ兎だという。本人に全くその気はなくても、強引に誰かの幸運を奪ってしまうらしい。その被害は彼女が館内にいる限り、外まで影響することはない。
 一連の事故を目の当たりにして、由那は呆然と立ち尽くす。悲鳴を聞いたのか、こちらへ走ってくる足音をどこか遠くの出来事のように感じていた。


つづく!!





[ 3 ]

「使用上の注意、軽く流し読みしてから使ってくんな」
「それは、使う前に言うべきだと思います・・」
「私はむしろ、『軽く』という表現に疑問を持ちたいんだが」

■災難其ノ参

 ここは幻夢館、半魔と妖怪と幻魔が棲まう妖しの屋敷。彼らは人知れず、山の境界線から人界へと妖魔が流出するのを防いでいる。はずなのだが、実際に頑張っているのは紅配下の分身達だったりする。
 だから屋敷の外で恐怖の大魔王が降ってこようが、山の境界線付近で熾烈な戦いが繰り広げられていようが、彼らにはどうでも良い事なのである。
 否。
 関わっている暇がない。全く歯が立たないからという理由も、確かに理由の一つでもあるのだが。
『夜に惑う魔だからこそ、ああいった場所が必要なのさ』
 以前、幻夢館の存在理由について紅が言った言葉である。想霧はもちろん、槐や感縫も理解できなかった。夜に外を出歩けない妖魔など、その存在価値は無に等しい。何故、紅はそんな者達を境界線に留め置くのか。
 二度目の叫びに、槐は軽く眉を寄せた。
「これは、どうすればいいのかしら」
「とりあえず、現場へ・・」
「ちったぁ、謝らんかい! 冷感娘がッ」
 薄汚い男がレンに怒鳴っていた。男の背後でタヌキにしては長い尻尾が上下にせわしく動く。どうやら、登夢が人間の姿になりそこねたらしい。ピンピンに張った猫耳とヒゲがかなり怪しげだ。
「あのような所に寝ている方が不作法なのですわ。私に怒るより、静かで邪魔の入らない場所を探したら?」
「縁側をどかどか歩き回る奴がどこにおんねんっ」
「まぁ、失礼な。そんな歩き方など、想霧しかありえませんわ」
「なんで、そこに私が引き合いに出されるんだろうね」
「知りませんわ、そんなの」
 ため息に混じりに想霧が口を挟めば、ツンとそっぽを向く。お嬢様は完全にヘソを曲げてしまったようだ。原因をたどれば、実に子供っぽい感情に行き着いてしまう。
 登夢もこれ以上の言い合いは無意味だと感じたのだろう。
「で、あんたらはなんで此処にたむろってるんだ?」
「そうね。忘れる所だったわ、どうでも良すぎて」
 槐の言葉はイヤミなくらいに的を射ていた。そもそも悲鳴が聞こえたくらいで血相を変える方がどうかしている。ここは幻夢館なのだ。少しくらいおかしな事が起きても不思議じゃない。
 何故ならば、妖魔の例外を集めたのが幻夢館の住人達だからである。
 槐が無言で歩き始めていたが、想霧たちもなんとなくその後をついていった。
「確かにこの屋敷で何があってもおかしくない」
「前回はバカ兎の所為で酷い目に遭いましたわ」
 レンが嘆息すれば、いつの間にか黒猫に戻った登夢が耳の後ろを掻く。
「そりゃあ、お前が怖い話で脅かそうとするからだろ」
「怪談くらいで、妖怪が怯えてどうするんですの?」
「月の兎は妖怪と違うのよ、レン」
「そ、そんな事知ってますわ!」
 冷静な槐に指摘され、真っ赤になってレンが反論する。当然、知ったかぶりなのはバレバレである。
「紅様は何を見通されたのか」
「行けば、分かるわ」
 まったくもってその通りだ。
 がちゃっ
 想霧が台所のドアノブに触れる直前、ドアが先に動いた。直後、
「おぉ、そこにあるは愛しの我が君!!」
「は?」
 歓喜に震え、両手を広げた感縫がそこに立っていた。
 そして、
「ふぎゃあぁぁぁっ??!」
 本日、三度目の雄叫び――もとい、悲鳴が響き渡った。


 親愛なる読者様と哀れな犠牲者たる彼の名誉の為に、ここで少し述べておこうと思う。全ては、偶然が重なった結果なのだから―――。
 嵐の去った後のように散乱したキッチンは、もう何を作っていたのかも分からなくなっていた。テーブルとコンロの狭い通路に、潰された蛙のようにひっくり返った青年がいる。その上にペタンと座り込む由良がいた。かたや完全に気絶し、かたやすっかり呆けている。共通しているのは、等しくかぶったクッキー(生)だろうか。
 由那は今すぐ現実逃避したい衝動に駆られていた。
(これは夢よ。とってもたちの悪い夢・・・・っ)
 夢、夢だと何度も唱えていると、本当にそんな気がしてくる。もう少しで自己暗示も完了かという時だった。
「だ、大丈夫・・?」
「ほえ~」
 運命はいつだって平等に無情である。やなぎの声と、間の抜けた由良の表情が無理矢理に現実へ引き戻してくれる。
(この際、バカ兎を永遠に葬り去るしかッ)
 なんでこんなバカを庇って、月追放なんかされたのだろうか。ちょっと悲しくなった由那であった。
「と・・とりあえず、拭いてあげるね」
 ふきん、ふきんと唱えながら、やなぎが台ふきんを取りに行く。ぽけっと呆けっ放しの由良はその後ろ姿を眺めている。どうせ思考回路なんざ、機能停止したままなのだ。スポンジ状の脳は知識を吸収しても、記憶修復と意識回復能力は牛よりも遅いに違いない。
 長く深いため息の後、由那は同胞を呼んだ。
「由良」
「ふへ~」
「こっち、おいで」
「ふぇ~」
 手招きされるがままに、バカ兎はテクテクと由那の前に歩いていく。それが刑執行の台だと気づくはずもない。
「この話はね、今回で終わりなのよ」
「ふにゃ~」
「だからね・・」
 ずびしっ
 由那の黄金の右チョップが炸裂。ハリセンに続く遠慮の欠片もない攻撃に、やなぎが思わずふきんを落とした。
 べちゃ
 濡れた布巾で拭き取るつもりだったのか。更に悪化する予定を未定に変え、由那は安堵の息を吐いた。
「これで元に戻るでしょ」
 アンタ、それは古い家電の直し方だよ。
 どこかで諦めたようなツッコミ(天の声)が入る。
 まぁ、そんなこたぁどうでもいい。
「なんてことするんですか、由那さん!」
「あぁ、いいの。いつもの事だし」
「・・って、毎回・・?」
「そう。だから、気にしないで」
「そんなの可哀想すぎます・・」
 うる、と目に涙をためるやなぎは大層可愛らしく、清楚可憐の四文字が似合う彼女だからこその悲哀がにじみ出ていた。となれば、対する由那は悪女となるのだろうか。
 困って横を見れば、その顔が見る間に引きつる。
「可愛いっ!」
 キラキラと目を輝かせ、あまつさえ頬をほんのり桜色に染めて由良が感極まった声を出す。胸の前に握りしめた手がギリと音を立て、身体をぶるんと揺さぶる。
「可愛すぎるッ」
「え、あの・・」
「大好き~っ」
「えぇ?!」
 やなぎは、由良に力の限り抱きしめられた。あまりに突然のことで、由那も反応ができない。
「え、えーと・・」
「大好き大好き~っ」
「あの・・、えと・・」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめる由良に、嬉しさ半分苦しさ半分で困惑したやなぎが、由那に助けを求める。
「由那さ・・」
「ゴメン、あたし逃げる」
 かなり前からこの場を脱出したかったのだ。いつまでも呆けていると、こっちの思考がイカレる。ちょうどその頃、「うーん」と呻きながら感縫が起きあがった。
「あ、感縫。起きたのね」
「マイハニー!!」
「・・・・は?」
「マイハニーの匂いがするッ」
 この男は覚めていきなり何を言い出すのか。ひょっとして打ち所が悪かったのかもしれない。そうに違いない。
「この扉の向こうか!?」
「ち、ちょっと待っ――」
 由那が止める暇も余裕もない。さっさとドアを開けて、彼は声高々にのたまった。
「おぉ、そこにあるは愛しの我が君!!」
「もぉ・・・・嫌」
 小さく呻いて、由那はその場にうずくまった。頭上では、よく知っている猫の悲鳴が上がっている。
 これが夢だというのなら、早く醒めて欲しい。なかなか醒めないのが悪夢なら、いつかは醒めるという希望を持てるというものを。
「想霧」
「・・なに」
「貴方の彼氏って、猫フェチだったの?」
「たぶん、違う」
 槐と想霧の会話が聞こえた。どうして今日に限って、紅の分身達がこれだけ集まっているのかは別として、
「最悪な日」
 色々な思いを込めて、由那は「くそったれ」と毒吐いた。



「で?」
 膝に載せた虎毛の猫を撫でながら、紅は話の先を促す。その姿こそ優雅なものだが、視線の向かう所にはボロボロのメイド服が膝を折っていた。
「原因はやなぎの薬だった、という事かい」
「そのようです。人間用の媚薬を登夢が作らせていました」
「兎が何も知らずに生地へ混入させ、あろうことか二人で仲良くかぶった、か。くくく・・おかしいねェ」
「笑い事ではありません」
 ムッとして想霧が言い返すが、主の笑いの発作はなかなか収まりそうもない。猫が胡乱げな眼差しを彼女に向け、くぁ~と大きなあくびをした。
「解毒剤はやなぎが作っているんだろう?」
「えぇ、まぁ」
 その辺は分身のやっていることだ。その気になれば、紅は全ての分身達の行動を把握できる。今は正気を保っている感縫が自己嫌悪に陥っていたり、仲間はずれの喜柳が槐に話をせがんでいるのも知っているはずだ。
「歯切れが悪いね、想霧」
「その・・・・、由良がやなぎにくっついて離れないので。なかなか薬の作成過程が進まないのです」
「感縫はどうしているんだい?」
「登夢が人間状態を保っているので、今は普通です。満月と新月には両者を隔離する手筈になっています」
「そうだな。それが賢明だね」
 半獣半人という種族は獣の族種に限らず、月の満ち欠けに左右されやすい。ワーキャットも例外ではない。魔力の落ちる新月には猫に戻ってしまうし、満月にはどうしてもハイテンションになってしまう。
「ということは、『元が猫』というのが正しいみたいだね」
「紅様、問題はそこではありません」
「いいじゃないかィ。その程度で済んだのなら、歪みもすぐに燈明堂が修正するだろうさ」
「・・・・だといいのですが」
 幻夢館が境界線の番人達が棲む屋敷なのは理由がある。境界線の内外の歪みが、真っ先に影響するのが幻夢館なのだ。そういう位置に置いたというのが正しいか。
 そして幸運の度合いを狂わせる能力――要するに運気を操る能力――と、狂気を操る能力――要するに狂気を集める能力――を持つ兎達が、歪み探知機のような役割を果たしているのである。登夢や綿未は、単にそれに巻き込まれやすいだけだ。
「夜を満足に歩けない者達にこそ、任せる役目がある・・」
「おかげで、大層な目に遭いました」
 むっつりと想霧が言う。危険な調合をする時には、由良をやなぎから力ずくで引き剥がす必要があったのだ。登夢は登夢で、猫状態のパニックはとても手に負えない。
「効き目が強すぎる薬は考え物ですね・・」
「ただの惚れ薬らしいね、人間用の」
「はい」
 それで、人間じゃない由良や感縫には妙な効果を発揮したのだ。一目惚れというよりは、内なる衝動が別ベクトルで表面化したと考えればいい。
「感縫は猫好きですから」
「そうらしいね」
 主人である紅が猫好きなのだ。それもアリだろう。
「ま、解毒剤が完成するまでの辛抱だよ」
「えぇ、いざという時に全員が動けないのは都合が悪いですから」
 微妙にかみ合わない。紅は低く笑った。彼女が指したのはそういう事ではないのに。どうして想霧は鋭いようで鈍かった。
「狂い姫の事なら、心配無用さ」
「・・紅様?」
「とりあえず、登夢に厳罰。かねェ」
「え?」
「あの馬鹿猫め、・・・・やってくれるよ」

 いろいろあって、一連の騒動はひとまずの結末を迎えた。感縫・想霧の関係がちょっと低温化したり、喜柳がやなぎに同伴するようになったりと多少の変化もあった。それもまた、移りゆく過程の一部と思えばなんという事もない。
「くぬーっ、なんで俺サマがこんな目に」
「文句言わないで、しっかり運んでください。貴方の雄叫びのお陰で、あの書庫が使えなくなったんですから」
 綿未が前も見えないくらいに本を抱え、同じような格好になっている中年男を注意する。レンに尻尾を踏まれたせいで、人間状態でも尻尾を隠せなくなっていた。左右に尻尾を振りながら、登夢はふくれっ面で反論する。
「窓ガラスくらい、すぐに交換できるだろ」
「あの無駄に高い場所のガラスを、ですか」
「・・・・悪かったよ」
 幻夢館の書庫はやたら天井が高い。しかも窓が低い位置にないので、相当汚かったに違いない。それをいうなら、掃除できない棚の上も同様だろうが。
「天日と水気は大敵なのに、どうしてガラスなんか割ってくれるんですか」
「痛かったんだよ、激烈に」
 綿未はまだ腫れている様子の尻尾を見やった。そうして息を吐く。
「こういうのを自業自得っていうんですよ。惚れ薬なんか依頼するから」
「あのバカ兎が使うと思わなかったんだよ」
「由良さんは貴方の愚行を未然に防いでくれたんです。罵る権利はありません。文句を言わず、さっさと運んでください」
「へぃへぃ」
 廊下が朱の色に染まりつつあった。窓の外は日暮れの時間帯なのだろう。大地を焦がしそうな夕日を思い出し、登夢は独りごちた。
「俺ァな、夜が嫌いなんだよ」


おわり。


あとがきなど
Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipisicing elit, sed do eiusmod tempor incididunt ut labore et dolore magna aliqua. Ut enim ad minim veniam, quis nostrud exercitation ullamco laboris nisi ut aliquip ex ea commodo consequat. Duis aute irure dolor in reprehenderit in voluptate velit esse cillum dolore eu fugiat nulla pariatur. Excepteur sint occaecat cupidatat non proident, sunt in culpa qui officia deserunt mollit anim id est laborum.
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