「本当は、羨ましかったの・・っ」
 初めて聞いた悲痛な叫びだった。
「わたしだって、自由になりたい。外を、自分の足で歩いてみたいの!」



~ツバサを広げて~



 白で埋め尽くされた部屋に、その少女はいた。
 もう鳥籠ではない。翼を折られ、動くことすら封じていた鎖はなくなっていた。それでも、彼女の足は長い時間の中で歩くことを忘れてしまったから、今もベッドの上での生活をしている。
「エルフィーネ」
「おはよう、アルフェイネ」
 ゆっくりと振り向いて、柔らかく微笑む。
 それは何度も見慣れてきた表情であるのに、なんだかとても眩しい。解放された喜びが彼女を包んでいるからか、それとも別の何かが彼女を変えてしまったのだろうか。淡い色の瞳を緩やかに細めて、こちらを見つめる少女はかつてのような儚さが薄れている。
「うん、おはよう」
 くすぐったいような気持ちで、アルフェイネは応える。
 エルフィーネとは生まれも育ちも違うけれど、まるで双子のように時間と心を共有してきた。エルフィーネの悲しみはアルフェイネの悲しみであり、アルフェイネの喜びはエルフィーネの喜びだ。同じ人を好きになって、同じ人を見つめていたかった。
 籠から解き放たれて、それは違っていたのだと知った。
「ねえ、見て? やなぎちゃんに、髪を結ってもらったのよ」
 嬉しさに頬を染めながら、愛らしいリボンの揺れる髪をアルフェイネに見せる。
 伸ばすだけだった髪は緩やかなカーブを描きながら、肩から下へと落ちていた。ただ一人に見せる為だけに整えていた全ては、彼女自身を彩る為に飾られる。今まではあらゆる面で受け入れるしかなかった彼女が、自分から行動を起こした結果だ。
「アルのくれたリボンが似合うようにね、髪を結ってって頼んだの」
「え?」
「だって、いつまでも使わないのは可哀想でしょう? だから、今日はアルと同じ髪型」
 髪を揺らし、エルフィーネは「ほらね」と微笑む。
 空色のリボンとアルフェイネの赤いリボンは、お揃いになるように買ったのだ。ベルゼールにバレては困るので、どちらも使うことはなかった。ふと思いついて今日使ってみたものと同じリボンが、エルフィーネの髪を飾っている。
「お揃い、だね」
「うん。アルとお揃いって、嬉しいね」
 急に泣きたくなった。
 そのリボンはフィリオスに無理を言って買ってもらったものだと教えたら、彼女はもっと喜ぶだろう。それなのに、言葉が咽喉につかえて出てこない。あまりにもエルフィーネが眩しい笑顔で微笑んでいるから、気付かないうちに抱えていた黒い感情に押しつぶされそうだ。
「アル? アルフェイネ、どうしたの? お腹痛いの?」
「ううん、違うの」
「でも辛そうだよ。やなぎちゃんを呼ぼうか? それとも想霧さんのがいいかな」
「いいの。本当に大丈夫、だから」
「アルフェ――・・」
 腕を伸ばして、ぎゅうと抱きしめる。触れ合ったって、どれだけ言葉を交わしたって、誰かに咎められることはない。ここでは何をしてもいい、と言われた。与えられた自由はあまりにも大きすぎて、どう扱えばいいのか戸惑う。
(なのに、あなたはすごくキレイに笑う。籠の中にいた時と同じくらい・・・・ううん、それ以上に)
 真っ白なエルフィーネ。
 一切の穢れを知らず、折れた翼を抱えて生きてきた。真綿にくるまれた生活は、あらゆる痛みから遠ざける。苦しみも、辛いことも、全部なかったことにされる。
「ねえ」
「なあに」
「今、幸せ?」
「うん」
「そっか、良かった」
「すごく幸せだよ」
 互いの体を抱きしめながら、静かに涙をこぼす。
 幸せなのは本当。心は少しずつひび割れていくのに、その間を涙が浸みていく。だから痛みを感じない。籠の中よりも、今は幸せ。泣くことも、笑うことも自由だから。
「でも」
 小さな嗚咽が言葉を紡ぐ。
「かなしい」
 ここにはあの人がいない。
 手を伸ばしても、声を上げても、絶対に届かない。今まで当たり前にいた存在がいなくなるということは、どんな言葉で重ねても足りないくらいに哀しい。好きじゃなかった。嫌いでもなかったけど、やっぱり好きにはなれなかったと思う。
 だけど、寂しい。哀しい。二度と声を聞けなくなったこと、優しくて残酷な言葉で体を縛られなくなったこと、空気と同じくらいにそこにいた存在が感じられないということ。
 あの人には、もう未来がない。もう過去も意味を為さない。
「ねえ、エル」
「なあに、アル」
「外へ行こう。探しに行くの、二人で」
 エルフィーネの目が驚きで丸くなる。
 本当は彼女の足はもう動く。そうなるように治してもらった。歩くことを忘れてしまったから歩けないだけで、歩こうと思えば歩けるはずだと偉い人が言っていた。エルフィーネは幸せだというけれど、アルフェイネが「足りない」と思うくらいにはエルフィーネも同じことを感じているはずだ。
「探しに行くの?」
「うん」
 でも、とエルフィーネの瞳が揺れる。
「逢えるかな。・・・・逢っても、いいのかな」
「会えるよ! あたしたちは自由なんだよ。だから、きっと探せるよ」
「そう、だよね」
 一度伏せられた目が再びアルフェイネを見つめる。互いの髪を飾る色違いのリボンは、叶わないと諦めていた想いの形だ。何も言わずとも、心が繋がっているから感じ取れる。エルフィーネはアルフェイネの願いを、アルフェイネはエルフィーネの祈りを――。
 しっかりと手を繋ぎ、微笑み合う。
「行こう、外へ」

**

 赤色がかった黒いコートをはためかせて、長身の女性が扉を開けて現れた。
「あ、カサネさん。おかえりなさい」
「ただいま。二人とも、どこかへ行くのか?」
「お買い物!」
「何を買うかは内緒です」
「えぇ、いいなあ」
 間延びした声は、カサネの背後から聞こえてくる。黒衣の女性がふわりと降り立った。どこもかしこも柔らかそうな白い肌を惜しげもなく晒して、コートの肩にしなだれかかる。
「ねえねえ、カサネちゃんも何か買って?」
「自分で買ってこい。金はあるだろう」
「けち」
 腰に手をやり、ぷっくりとむくれる様は子供っぽい。
「アルもエルも幸せそうなのに、カサネちゃんだけあたしに幸せをくれないのねえぇ」
「だ、だから! どうして、そういうことになるんだっ」
「ひどいわ、ひどいわ。カサネちゃんの愛が欲しいだけなのに~っ」
「あの、カサネさん」
「ダメよ、エル。これはいわゆる痴話ゲンカってヤツだから、あたしたちは関わっちゃダメなの」
「そ、そうなの?」
「アルフェイネ、間違った知識をエルフィーネに植え付けようとしな・・・・冥、どこを触ってる!」
「くすん。買ってくれないなら、カサネちゃんのお金を使ってやるんだから」
「同じだろう! や、やめ・・っ、こら!」
 冥理夜の手がもぞもぞとコートの中を動き回り、カサネはそれを引っ張り出そうともがく。とにかく、この二人は仲が良い。それを言うと、カサネは必ず否定してくるのだが、普段の姿を見ているとやっぱり間違いないと思うのだ。
「エル。この人たちはほっといて、さっさと行こうよ」
「う、うん」
 一応いってきますと声をかけたのだが、もみ合いが白熱化していて聞こえなかったらしい。それがちょっと寂しいなと思いながら、エルフィーネは静かに扉を閉める。
「うっわあ、いい天気」
「すごくきれいな青空だよ、アル」
「あ! あの雲、美味しそう・・」
「ううん、食べても味はしないと思うなあ」
 そんな会話をしながら、二人は外を歩く。
 少し前までは全然、考えもしなかったことだ。空が青いことも、風があることも、全部知っていたはずなのに、見るもの触れるもの全てが新鮮で、いつも驚きの連続だ。空気にも色々な匂いがあって、空の色も表現できないくらいの種類があって、あんまりにも膨大な情報量に頭がついていかない。
 とにかく楽しくて、嬉しくて、面白すぎて、笑わない日はないくらいに笑っている。
「あ、そうそう。聞いてよ、エルフィーネ。この間、燈明堂って所に行ってみたんだけどね」
「トーメードウ?」
「本屋なんだって。でもすっごくボロいの。今にも崩れそうだったよ」
「だ、大丈夫なの? そんな所に入っても」
「うーん、壊れても大丈夫みたいなことは言ってたかも」
「大丈夫、なんだ・・」
 それでね、とアルフェイネの話が続いていく。
『ねえねえ、聞いて。今日もフィルに会えたんだよ! それでね――』
 もう口癖になった彼女の「それでね」を聞きながら、エルフィーネは「トーメードウ」について思いを馳せる。籠の中にいた時も、こうやってアルフェイネは「外」の話をしてくれた。いつでもたくさんの楽しい話を持ってきてくれたから、エルフィーネは「寂しい」という感情を知らなかった。
 知らずに、いられたのだ。
「今度、一緒に行こうね。エルの淹れるお茶の方が絶対、ぜーったい美味しいんだから。そんで、あの要ぎゃふんって言わせてやるわっ」
「ふふっ」
「エル? なんで笑ってるの」
「うん、嬉しくて」
 アルフェイネはごく自然に「一緒に行こう」と言ってくれた。でも、それはまだ数える回数しか言っていないことに彼女自身は気付いているだろうか。
(私は歩けなかったから)
 そこにいるのが当たり前だった。
 翼があるんだよと言われても、それをどう使えばいいのか分からなかった。一生懸命に羽ばたいても、空を飛べる保障なんかない。どこに飛べばいいのか、どう飛べばいいのか。いつ羽ばたけばいいのか。誰も教えてくれないし、誰も方法を与えてくれない。
 みんなで意地悪をしてるんだ、と思っていた。でも違った。
「もしも崩れそうになっても、エルはあたしが守るからね!」
「じゃあ、アルは私が守ってあげるね」
「本当?」
「うん」
 翼があるから、怖いことがある。翼を広げることを知ってしまったから、世界がこんなにも大きいんだと知ってしまった。もっと知りたいと思ってしまった。
 でも、エルフィーネが自分で羽ばたこうとすると皆が喜んでくれる。
 彼が笑ってくれる。今まで知らなかったことを、驚いたことを伝える度に、嬉しそうな顔で聞いてくれる。そんな時にアルフェイネは少しだけ辛そうな顔をするようになった。アルフェイネが彼と喋っていると、少しだけ胸が苦しくなった。三人でいても、時々妙な寂しさに囚われることがある。
(私、ワガママになっちゃった)
 今でもすごく幸せで、幸せすぎて踊りたくなるのに、もっと幸せになりたい。アルフェイネと、彼ともっと一緒にいたい。笑い合っていたい。たくさんのことを経験していきたい。
「あのね、アル」
「なに?」
「私ね、すっごく欲張りになっちゃった」
「エルもなの? あたしもだよ」
 くすりと笑い合い、繋いだてを大きく振りながら歩いていく。
 願い事は同じかもしれない。違うかもしれない。でもきっと、二人でなら叶えていけるから。空色のリボンと赤いリボンを風に揺らし、どこまでも歩いていくのだ。
 いつまでも、二人で。
あとがきなど
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