とある山中には、変わり者で有名な刀匠の庵があった。
 いつからそこに棲みついているのか。何歳なのかは誰も知らない。
 これは、とある『人間』を見つめた一匹の子鬼の、記憶の欠片である。






 その切っ先が咽喉を切り裂いて、真っ赤な水が噴き出す。
 男が一歩退けば、その飛沫はばたばたと大地に降り注いだ。煩わしそうな視線がそれを見届けて、刀を一振りする。たったそれだけで白刃からは血糊も落ちて、元のきれいな姿を取り戻した。刃はゆっくりと鞘に納められ、チンという澄んだ音で終わりを告げる。
「全く」
 細められた目は、あちこちに伏す者らを見下ろしていた。
 一つに括った灰色の髪も、灰茶の着流しにも返り血は飛んでいない。男にしては細身の体は息を切らした様子もなく、履き古した草履が じゃり と音を立てた。
「己の力量も弁えられない奴が、多すぎるね」
「藤沢が強いだけだと思う」
 ぼそりと呟いた声を拾い、男は「ははっ」と笑った。
「私は弱いさ。……文句言いたげな目をするんじゃないよ、坊主」
「おれは龍介だ」
「一人前になったら、呼んでやると言っていなかったっけね」
「ニンゲンのくせに」
 反論する言葉が見つからず、結局毀れていったのは負け惜しみにもならない文句だった。藤沢は何も言わず、赤く染まった大地から背を向ける。しばらく迷ってから、龍介はゆっくりと歩き出す足を追いかけた。
(…ニンゲンなのに)
 藤沢は剣客ではなく、刀匠だ。それもかなり高名な職人らしい。
 今は乱世で、たくさんの人間が殺し合っている。何も人を斬るのは、藤沢だけじゃあない。領地や身分、富を取り合っては、おびただしい血を流す。生きるためにそうしているのだというが、人間同士で殺し合う意味が龍介には分からない。
「藤沢」
「何だ?」
「なんで、左を使わねえんだ」
 共に住んでいるから分かる。藤沢は左利きだった。
 一人ぼっちだった龍介は彼に『拾われた』らしい。名を与えられ、食事を与えられ、寝る所も確保できた。人間がいる町に行くことはできないので、行動範囲は専ら山の中に限定される。さすがに何もしないのは暇なので、水を汲んだり、食料を調達してきたりする。
 魚や獣、木の実や山菜といった食べ物はいくらでもあった。
「必要があれば、そうするさ」
 藤沢の口癖だ。
 町に行かないのも、左を使わないのも、彼にとって『必要がない』ということなのだ。
(じゃあ、おれは『必要がある』から一緒にいられるのかな)
 急に確かめたくなるが、怖くて聞けない。
 黙り込んだ龍介に何を思ったか、藤沢の大きな手がぐりぐりと頭をかき混ぜていった。乱暴なくらいの手つきが、何故か嫌いになれない。子供扱いされていると不満に思う反面、この手を振り払う気にはなれなかった。
「……坊主」
「龍介だッ」
「私から離れるなよ」
「え?」
 問いかける声は出てこなかった。
 ぶわ、と空気が膨らむ。それが藤沢の闘気だと気づく前に、軽やかな笑い声が聞こえてくる。鈴を鳴らすような心地良い響きだ。
「こんばんわ」
「ほう? 随分と見目良い魔が出てきたものだ」
「あなたこそ、よくわたしに気付いたわね? いつものように、そのまま帰っちゃうのかと思ったわ」
「気が変わったのさ」
「そうなの」
 頭上で交わされる会話に目眩がしそうだった。
 藤沢は相手が何者か、分かっているのだろうか。鬼である龍介は、冷たい手で心臓を握られているような悪寒が止まらない。ちゃんと息をできているか、まだ生きているのかも把握できない。そこに浮かんでいる『闇』が無性に怖い。
 黒い着物の妖艶な美女は、にんまりと笑む。
「わたし、ヘキウ。あなたは?」
「私か? 私は…」
「ダメだ!」
 あっさりと名乗ろうとする藤沢の袖を、龍介は無我夢中で掴んでいた。
 指一本すら動かせないと思っていたから、そうできたのは奇跡に近い。不思議そうに見下ろしてくる男に、龍介はただ首を振る。この『闇』に真名を与えてはいけない。無意識下で契約が成立し、藤沢の魂は『闇』に囚われる。
 それだけは嫌だと思った。
「大丈夫だ、坊主」
「……」
「私は藤沢重久、という。突然だが、ヘキウ。あんた、私のものにならないか?」
「わたしが欲しいの? だったら──」
「契約じゃない。私が欲しいのは、あんたの心だ」
「ココロ?」
 童女のようにあどけない表情で、彼女は首を傾げた。
 魂の「絶望」を喰らう幻魔のくせに、心が分からないのだろうか。ヘキウという魔のことなら、龍介も知っている。最古の幻魔の一人であり、秘めたる能力は計り知れない。どこに棲み、どこに現れるか分からないので、実際に姿を見た者はいないとすら言われていた。
「ココロ、ってなあに? どんな形をしているの? どんな匂いがするの?」
「匂いはわからないが、形は色々だ」
「ふうん」
「心に興味があるのか? 宵の姫」
「よくわからない」
 ふるり、とヘキウは首を振った。
 艶やかな黒髪が揺れて、むき出しの肌を滑る。整いすぎた顔立ちといい、まろやかな曲線を描く肢体といい、女としての色香は十分すぎるほどである。龍介が見た目で惑わされないのは、決して子供だからではない。鬼の本能が、これは危険だと叫んでいるからだ。
 しかし藤沢は、ただの人間である。
「あなたも、よくわからない」
 確かに、と龍介は内心頷いた。
 ヘキウの体を欲するのではなく、心が欲しいという。これまで一度も会った訳ではないのだから、今が正真正銘の初対面だ。
「おかしいか? 私は正直な気持ちを言っただけなんだが」
「あなたが生み出す絶望は美味しかったわ。でも、あなたは絶望しない。何も見えないし、わからない。わたしには、あなたが何を思っているのか分からない」
「なら、一緒に来ればいい」
「藤沢っ」
「ああ、こいつは龍介という。単なる子鬼だ。害はない」
「なんだよそれ!」
「だが、事実だろう?」
「それもそうね」
 彼女がどの言葉に対して頷いたのかは分からない。
 藤沢も笑っているだけで、それ以上何も言うことがなかった。龍介は言ってやりたい文句が山程あったのだが、なんとなく言い出せずにいた。
 そうして夜が更ける。

「だから、なんでお前がいるんだよ!」
「え~? だってシゲちゃんが一緒に来いって言ったんだもの」
「お前達、騒々しいぞ」
 人間の庵にもう一つ、棲みつくモノが増えた。
 最初は怖くて近寄れなかった龍介だったが、わがもの顔でうろつく姿に畏怖はどこかへ行ってしまったらしい。二人がやり合っている所へ、やんわりと藤沢が割って入るのが日常となっていった。
 彼らは賑やかに、穏やかに日々を過ごす。
 いずれ終わりが来ることは分かっていた。この中で一番寿命が短いのは「人間」である藤沢だ。鬼よりも早く老いて、幻魔が体験することのない病に罹って死んでいく。
(だが、それはもっと先のことだと思っていた)
 時は乱世、人間たちが最も多く殺し合っていた時代――…、その男は己が作った刃によって生を終えた。
あとがきなど
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